「技術にも自治がある」をなぜ出版したかというと、田中康夫長野県知事が「脱ダム宣言」を出して、治水・利水・ダム等検討委員会が作られました。私も委員に選ばれ、2年間、2週間に1度、計56回ぐらい長野まで通って激論をやったんですが、結局、私の思いは伝わりませんでした。正直申し上げて、長野の脱ダムは、今、道半ばで四苦八苦している状況です。具体化はなかなかしません。そんな中で、私の考え方を少しでも知っていただきたいと思い、この本を急いで書きました。
まず日本の自然をどう考えるかというときに、「縄文時代から考えてみよう」ということです。日本の自然はすばらしいと思います。どこも、絵に描いたような美しい景色が続いています。例えば、新潟県五泉市にある桂の原生林は、屋久島を思い出させるような雰囲気があり、「どっぱら清水」という湧き水がドーっと溢れ出ていて、この水で「すがなだけ菅名岳」というお酒が造られています。
新潟大学の「くらしと環境」という授業で、学生に「大学内で見かける鳥や樹木、草の名前を書け」と言ったら、鳥の名前は平均2.16種類で、カラスとスズメしかあがらない状況でした。樹木では、松、桜、杉の平均2.88種類。構内にはケヤキの並木があり、大学の前にはプラタナスの並木があるのに、そういうことに一切関心がないんです。草に至っては、1.06種類。タンポポしか知らなというのは、ちょっとひどいんじゃないかと思います。どうしてこうなったかというと、受験体制の中で、唯一解、つまり普遍的な解答を求めるような教育しかやってこなかったところに大きな問題があると思います。時や場所に関わる曖昧な事象をローカルなものとして無視してきたからではないでしょうか。美しいと感じる感性、ゆとりを持つこと、自然の中で自在に生きていく力というものは、つい最近まであったと思うんですが、それがなくなってきているようです。
・三内丸山遺跡−5500〜4000年前−(青森県)
そういう感性や力は縄文時代からあったんだろうと私は思うんです。「縄文時代はどういう状況だったか」を少し考えてみると、三内丸山遺跡が発掘されてからは、縄文時代に対する考え方が、大変変わってきているように思います。
・小瀬ヶ沢洞窟−約12000年前−(新潟県)
新潟には約1万2千年前の世界最古の土器が出土する遺跡があります。土器が出てくるということは、狩猟で動いてばかりいると土器は壊れますから、基本的に定住が始まったことを意味します。しかも世界最古の土器の出土は、世界最古の文化がここで発祥したと考えてもいいわけですが、日本はもちろん、新潟でも全くこのことが意識されていません。学校で教えてないんです。ささやかに看板がある程度です。ここには、2、30人も住んでいなかったのではないかと言われていますが、矢尻や石槍が何千点と出てくることから、物々交換をしていたんじゃないかと想定されています。
・奥三面・元屋敷遺跡−約3000〜2500年前−(新潟県)
最近完成した奥三面ダムを造るときに発掘された遺跡で、三内丸山遺跡に匹敵する遺跡だと思います。三内丸山の場合は野球場を造ろうとして掘ってたんですが、あまりすばらしかったから野球場を止めました。「ここもすばらしいからダム止めませんか」って私が新聞に投書したら、新潟県の土木部長が飛んできて「そういうことは言わないで下さい」って言われてしまいました。
この遺跡は3千年位前のものなんですが、川を付け替えています。前の川は、平べったい石を張って道路舗装してるんですね。こっち側に川が流れていると、居住地域の水はけが悪いということで川を付け替えたようです。川を挟んで集団墓地と居住地域に分かれていることから、この時から既に都市計画みたいな考え方もあったということが言えます。「まさにこれは土木に関する遺跡じゃないか、保存しよう」って言ったんですが、残念ながら、今はダムの水面下にあるというのが現状です。
この集団墓地の中には、翡翠が入っているお墓と、入ってないお墓があります。しかも、10個も入っているのもあれば、1個しか入っていないのもあるということで、もう既に、階層文化が始まっていたということが考えられます。翡翠は、基本的に新潟県糸魚川の姫川でとれたものが、日本全国に散らばっています。他でも翡翠はとれるんですが、今分析しますと、全部糸魚川から運ばれたものです。ですから、既に縄文時代にかなり物流があったと考えていいと思います。
・縄文のビーナス・火焔型土器−4000〜5000年前−(長野県)
縄文時代には、すばらしい芸術作品が作られていまし。国宝になっているのは、「縄文のビーナス」といわれるものと、「火焔型土器」の2点だけですが、こういう造形ができるというのは、相当な文化程度だったんだと思います。
・縄文文化と日本の自然
縄文文化には、定住・土器・磨製石器・織物・漆器がある。そして、物流や集団墓地があって、階層化が進んでいるとで、これは農耕社会の条件です。縄文社会は基本的に採集・狩猟社会だったから、世界の農耕文化より遅れていたと、今まで位置づけられてきたわけですが、逆に考えたらすごいことじゃないかと思うんです。農耕をやらなくてもこれだけの文化を持ち得たというのは、日本の自然がものすごく豊かだった、それと、自然と自在につき合える技があったからじゃないのか。日本は四季折々でいつでも食料が手に入ります。たぶん、縄文時代も畑作は知っていたと思いますが、畑作は、種をまいてもたいして収量が上がらない。それより「山へ行って熊捕まえて食べた方がよっぽど得だ」ということで、農耕が始まらなかったんじゃないかと思います。ただ、弥生時代になると、米はやっぱり収量が多いんですね。今はだいたい一反に3kg位まくと600kgくらい穫れて200倍です。蕎麦だったら、現在でもおそらく30倍くらいでったということが言えると思います。世界と比較しても、明確な一定規模以上の定住が始まるのが、日本の場合、約7千年前だといわれているのに対し、農耕社会が確立していた東アジア、西アジアは8千年前後ですから、あまり遅れてないんです。そういう意味では、日本の文化というものを見直してもいいと思いますし、日本の自然の位置づけを考え直してもいいのかなと思います。
東京湾の干潟は、前は136km2あったんですが、今は富津の先と三番瀬に少し残っているだけです。私は台湾から引き揚げてきて千葉に行ったんですが、貧乏のどん底でした。それでも東京湾に行くといつでも貝が捕れたので10年間くらい朝昼晩、貝ばかり食べていました。いざとなると、飢えなくて済んだんです。東京湾だけでなく、新潟でも山に行けば山菜が採れ、川に行けばちょっと前まではアユも捕れましたし、シャケも上がってきていました。そういう意味で、縄文時代からあった日本の自然が、つい最近まではあったんじゃないかと思います。
ところがこの約50年で、川はダムのない川がないくらいです。「ダムがなくて、源流に落ちた落ち葉がちゃんと海まで行って海の栄養になるような川は、レッドデータブックに載せて保存すべきだ」と私は公言しています。川にはダムができ、田んぼも今はパイプ灌漑で、排水路も三面張りになって、ヘビもドジョウもメダカも住めない平野になりました。私は越後平野を「コシヒカリ工場」だと言っています。この50年で、我々が何千年も持っていた豊かな自然を急激に失っているんじゃないかという感じがします。私は「国破れて山河(海)あり」ということを、まさに体で実感して育った人間ですが、今は、「国栄えて山河(海)なし」といわなければならない時代なのかなと、日本の豊かな自然をもう一度復元する、その境目に今きているんじゃないかという気がしています。
私が習った日本史の教科書、宝月圭吾さんの「詳説日本史」には、縄文時代は『人々は労力の大部分を食料の獲得に割かなければならず、生活の程度も低く、物の考え方も幼稚であった』と書かれています。幼稚で火焔型土器がつくれるか、粘土であんな造形ができるかと思うんですが、こういう表現でした。ついでに江戸時代については、『国民の8割を占める農民は、領主のために租税を生産する機械のように扱われ、大部分の者は貧しい生活をしていた』と、教わりました。
その江戸時代も考え直してみようということで、渡辺京二さんの「逝きし世の面影」という本が1998年に出版されました。幕末から明治の初期に来日した外国人の書いたものを集めて評価した本ですが、私は、この本を手にしてそれまでの思いが全部変わりました。
・エドウィン・アーノルド (1832-1904 英国生まれの詩人、ジャーナリスト。明治22年に来日し、日本文化を記述)
エドウィン・アーノルドは、『その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のような性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲であるが卑屈に堕することなく、精巧であるがかざることもない。これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位におくものである』と言っています。中国やインド、東南アジアを通って来日し、十分、比較できる立場にある人たちがこう言ってるんです。
・ローレンス・オリファントっとも好感のもてる国民で、日本は貧しさや物乞いのまったくない唯一の国です。私はどんな地位であろうともシナへ行くのはごめんですが、日本なら喜んで出かけます』と、べた褒めしています。
・ロバート・フォーチュン (1813-1880 植物・園芸学者。珍しい植物を探して世界を旅し、1860・1861 年に来日)
景色に対してもロバート・フォーチュンはこう言っています。『どこでも小屋や農家はきちんとしており清潔に見受けられた。こんな様子はほかの東洋諸国では見たことがない。・・・風景は耐えず変化し、しかもつねに美しい―丘や谷、広い道路や木陰道、家と花園、そこには勤勉で、労苦におしひしがれておらず、明らかに幸せで満ち足りた人々が住んでいる』
・葛飾北斎の肉筆画「野人対瓶花」
確かに、天明3年の浅間山噴火で飢饉になり、寛保2年の大水害でも飢饉はあったと思うんですが、常にそうではなかったのではないか。「逝きし世の面影」のような情景も十分あったのではないかということで、葛飾北斎の「野人対瓶花」を思い出しました。農民が働いてくたびれて帰ってきて、牡丹かなにかの花を眺めているこの絵を最初に見たときは、江戸時代にこんなことはないだろうと思っていましたが、「逝きし世の面影」の記述を読み、「この絵は正しかった。北斎はきっちり描いていた」ということを再認識しました。明治以降の近代化がすばらしいことを強調するために江戸時代を悪く言い過ぎたという気がします。ともかく、今まで私が思っていた江戸時代像、あるいは縄文時代像は、変えていかなきゃいけないと思いました。
私は学問の2つの形態を考えています。1つは「真理探求型」で、もう1つは「関係性探求型」です。明治以降は、世界中に通用する真理を見つけ再現性のあるものを追求する「真理探究型」に偏り過ぎ、「関係性探求型」の学問が蔑ろにされてきたよう思います。両方とも大事なんです。「関係性探求型」とは、個別性を大事にしよう、個別同士の違いがあった場合それをどう調整していくかを追求する学問です。河川の問題では、水害に遭うところと遭わないところは明確に違うわけですが、それを全く平等に扱おうと今の河川行政は行われているように思います。不平等が元々ある場合はどうするのか、そのへんのノウハウが無くなってしまっているのではないかと思います。
技術のあり方も2通りあるように思います。いわゆる「工学」といわれるもののほとんどは、自然の中から我々に都合のいい所だけを切り取って、再現性を確保する技術ですが、これは、「自然科学」じゃなくて「人工科学」というべきじゃないかと思っています。それに対して、我々がやってる土木や建築は、少なくとも「生の自然」をある程度扱わなきゃいけない。地震や大水害を切り取るわけにいきません。その中でどうやっていくかということですが、今まで河川工学も人工科学に堕していたといえるでしょう。例えば川も、機械や電気工学と同じように、洪水をスムーズに流すために三面張りにしてきました。生の自然を取り扱うというより、自然を人間に都合よくつくり変えてしまおうというのが強かったのではないかと思います。私は、本来、土木は、「生の自然」をそのまま扱っていく学問ではないかと思いますが、人工科学的な土木工学を体系付けたのが、イギリス土木学会の初代会長、トーマス・テルフォード(1757-1834)です。今でも土木に業績のあった人には、テルフォード賞が与えられますが、テルフォードは、自然は克服の対象であって人間が利用できればいいという考え方がちょっと強かったのではないかと思います。
・ヘンリー・ダイヤー (1848-1918英国出身。明治6年25歳で工学寮に赴任。日本近代工業技術の父)
テルフォードなどの影響下で勉強していたヘンリー・ダイヤーが、日本に工学寮がつくられたときに、その校長職として来日します。彼はイギリスの工学教育に少し反発心があったのか、彼の理想とする工学教育を日本で展開していきます。若干25歳で来日し9年間で日本の今の工学教育の土台をつくりました。このことからも、その普遍的学問の凄さというのはよく分かると思いますが、一方、彼は大変芸術的センスがあり、この時工学寮の中に、美術学校もつくられました。その美術学校が今の芸大ですが、芸術的なところにも造詣が深く、職人にも大変興味を持つんですね。
彼の本(「大日本」)から引用すると、『日本をわれわれの手本としてとりわけ価値ある存在たらしめているのは、日本人がとくにすぐれた美徳をけていることである。それこそまさに、われわれがいちばん必要としていながら欠けているものなのである。一方、われわれイギリス人の国民性のうちで最も不愉快なものは、富を崇拝しそれを誇示すること、一般的な礼儀を欠いていること、芸術の魅力に対して鈍感なこと、役にも立たない仕事にやたら没頭すること、その結果として優雅な余暇を楽しむ能力に欠けていることである』というふうに言っています。「われわれイギリス人」というのを「今の日本人」と置き換えれば、ドンピシャリ当てはまります。先の「逝きし世の面影」に書かれていたような日本を、ダイヤーはちゃんと見ていたんだろうと思います。
もう一箇所、『欧米諸国に見る社会悪は、多くの場合、人々の仕事がひどく退屈で活気のないものであること、また階級を問わず多くの人が人生の意味と目的として掲げる理想があまりに唯物的で低俗なことから生じている。それにひきかえ昔の日本では、仕事が変化に富んでいたばかりか、働くことに興味と喜びを感じさせる仕事が多く、またそういう仕事はすべて、多少とも芸術的な性格を帯びていた。<時は金>ではなく・・・ とるべき措置として肝心なことは、工芸職人を組織して第一級の仕事には十分な報酬が保証されるようにし、・・・作品の洗練度と卓越度の基準を維持する必要がある』とも言っています。彼は工部大学校の学生に、座学で近代的な普遍的学問をきちっと教える一方、実務経験を徹底的にさせました。
・田辺朔郎 (1861-1944。琵琶湖疏水という日本土木史上に残る金字塔をうちたてた近代土木の先覚者)
ヘンリー・ダイヤーの教えを受けた人のうち、日本人で唯一テルフォード賞を受賞した田辺朔郎を紹介します。彼は琵琶湖疎水といって、琵琶湖から京都に水をもっていく大事業をやりました。卒業論文でそのことを書いて28歳で実行します。20歳代の人間が、今でいえば何千億円という仕事の総指揮をやったわけですから、これも普遍的学問の凄さを感じます。彼がつくった作品の一つに、南禅寺の水路閣があります。南禅寺の中に水路を通すには、かなり論議があったと思いますが、120余年が経った現在、京都の文化財として評価されています。おそらく、ダイヤーの教えを受け、こういう形にすれば、なんとか残っていくだろうと、田辺朔郎は考えたのではないのかと思います。
・青山士 (1878-1963 1904年からパナマ運河の測量設計に携わり、帰国後荒川放水路、信濃川大河津分水路工事を担当)
大河津分水にある記念碑には、『萬象ニ天意ヲ覺ル者ハ幸ナリ』、『人類ノ為メ国ノ為メ』と書かれています。青山士が書いた碑文で、彼は、「人類のため、私はパナマ運河を掘りたい」と言って、パナマ運河を掘りに行きました。ダイヤーの教えを受けた2世代目くらいになる人間です。
・樺島正義(1878東京出身。日本初の橋梁設計コンサル開設)・妻木頼黄(1859東京出身。官庁関連施設の建設に携わる)
樺島正義、妻木頼黄も、ヘンリー・ダイヤーの教えの2代目の世代になりますが、1911(明治44)年、彼らが日本橋をつくりました。色々デザインされた大変すばらしい橋で、1999年に重要文化財にも指定されています。
・日本橋の上の首都高速道路
ところが、戦後になり日本橋の上に首都高速道路ができてしまいました。戦前、ダイヤーの教えを受けた第1世代、第2世代ぐらいまでは、非常に芸術的センスがあるんですが、戦後になるとそういう先輩の仕事を顧みず、上に道路をつくって何とも思わない時代になってきます。あまりにひどいということで、ついに国土交通省も「東京都心における首都高速道路のあり方委員会」というのをつくって、この高速道路をとっぱらうという話が起こっています。老朽化もだいぶ進んできているということですが、一方、千年経っても腐らない石でできた日本橋は老朽化していない。いずれここで青空が見えるようにしようと今、議論されています。
・韓国、清渓川(チョンゲチョン川)
韓国では今、清渓川の復元事業が、今まさに工事の最中です。高速道路と道路だったのを、川に復元しようというんですが、現在1日17万台の車が走っているのが、おそらく4、5万台しか走れなくなるんじゃないでしょうか。それを敢えてやっている。ソウルでできることが東京ではできてない。完全に日本は負けたかなぁという感じです。ソウルの今の市長はこれを復元すると公約して市長になったので、工事が進んでいるわけです。

・新潟、堀の復元
新潟にはたくさん堀がありましたが、昭和39年の国体にあわせて全部埋めてしまいました。今、それを市民の間で復元しようとしています。合併問題があって政令指定都市になる記念に堀を復活しようというものです。その参考に9月に清渓川を見に行こうと考えています。戦前までは、技術者が、お金の無い中、一生懸命いいものをつくってきたんですが、戦後になって、お金がたくさんあるのにいい物がつくれないという時代になってしまったということが言えると思います。
新潟に行くまでは、私は弥生感覚で川を見ていたと思います。というのは、稲作やって、川が氾濫したり、渇水で農業用水が取れないと困りますよね。だから稲を中心に考えると、川のあり方にいろんな要求が出てくるわけです。ところが、新潟で、シャケやアユがどんどん上がってくるのを見ながら「縄文人はこれを食べてさっきの火焔土器みたいな文化を築いたんだなぁ」と、縄文的感覚で川を見てみると、魚やなんかを大切に考えなきゃいけないってことになると思うんです。本来は、その縄文的感覚と弥生的感覚が両方あって、現在まで来てたと思うんですが、明治以降、弥生的感覚の川の扱いが強調され過ぎたのではないか。「日本は稲作文化の民族だ」といった言い方をされますが、私は決してそうでない、両方あったというふうに思います。
新潟では春になると山菜採りを一生懸命やりますし、お正月には鮭が欠かせないといった所で、縄文的感覚も十分残っていたと思います。日本の川は山と海とが近くて、シャケやアユが戻ってくる。落ち葉が川や海の栄養になっているということを、昔はよく知っていたはずですね。
ところが、河川工学や国土交通省のパンフレットなどで日本の川の特徴を示すのによく使われる絵は、日本の川は急流で洪水や渇水になりやすいということだけを強調しています。確かに私が財務省の人間で、国交省の人がこの絵を持ってきて「だからダムが要ります」って言ったら、「じゃ、5千億円つけましょう」ってついなっちゃうでしょう。しかし、日本の川は短くて山と海と川が一体になっているということも、この絵から読み取るべきなんです。
「そういうことは昔から知ってたよ」ということがあちらこちらにありますが、一例として、水俣川の上流にある祠を紹介します。水俣川は(幹線流路延長が)20kmくらいの小さな川ですが、山間部に祠が全部で30くらいあります。その祠の中は必ずサンゴだとかアワビが祀ってあります。それは、山から流れてきた栄養が水俣湾の魚を豊かにしているのを、みんな知っているから山の中にこういうお祀りをしていたんだと思います。
日本の川は、時々大きな土砂を流してきます。しかし、そういう土砂があってはじめて、我々が住んでいる関東平野や越後平野や濃尾平野ができているわけです。そうしてできた沖積平野は、稲作に適し、舟を使っての交流もしやすい、飲み水も得られる。災害に遭いやすい所ほど人間が住みつきやすいんです。災害は元々そういうものなんだということを頭の隅に置いて考えていくべきではないか。だから、完全に災害を無くすことはできないと思うんですが、今の土木行政は、いろんなことを完全に安全にしてしまおうというところが強いように思います。
私が川と接触していて感動したのは、かなり急流で流速が速いところに、ヒゲナガカワトビケラが、口から絹のような糸を出してクモの巣みたいな網を張り、上流から流れてくる木の葉やなんかを引っかけて、それを餌にして食べているわけです。沈み石・浮き石とありますが、浮き石の所は、酸素をたくさん含んだ水が流れてくれるからいろんな生物が棲んでいます。瀬の所は浅いですから、太陽光線が当たって苔が生える。瀬があり淵があるという構造が大変重要だったんですが、河川工学の教科書には瀬とか淵が、今まで全く出てこなかったんです。つい最近、多自然型川づくりとかがいわれ始めて、やっと淵や瀬の話が出てくる時代になってきました。瀬や淵は、洪水が流れてくれないとできません。洪水が流れて古い苔をはがし、或いは転がってはがれ、そこに新しい苔が生えてきてはじめてアユにとっておいしい苔になるわけです。苔は2、3日で生えてくると聞いていますが、結局、川には時々洪水が起こって、いろんな攪乱があることが必要だと思います。基本的に川には無駄な水は一滴も流れていないと考えるべきです。
ただ、私は、まさに高度経済成長時生態系が確立されてきたわけですね。それをたかだかここ4、50年で大きなダムをつくって、そのダムの下流は全く洪水が起こらない構造になってしまったわけで、そこの生態系が完全に崩れてしまうのは、地球の歴史が始まって、ここ50年ぐらいではないかと思います。
川というのは、『地球における物質循環の重要な担い手であるとともに、人間にとって身近な自然で、恵みと災害という矛盾の中に、ゆっくりと時間をかけて、地域文化を育んできた存在である』という定義で川を考えるべきじゃないかと思います。私が習った河川工学の教科書やその他の多くの教科書が『河川とは、地表面に落下した雨や雪などの天水が集まり、海や湖などに注ぐ流れの筋(水路)などと、その流水とを含めた総称である』という定義なんですね。水循環は意識していますが、木の葉、土砂、流木などが流れてきたり、或いは、シャケが上ってきたり、下っていったりするということは、書かれていません。この定義だと、ダムをつくってもあんまり良心が痛まないんですよ。一年間見ればちゃんと水が循環していきますからね。ただ、先の定義でいくと、ダムはやはりその川の物質循環を完全に遮断してしまうわけです。だから川にとっては基本的にダムは敵対物だという認識を持つか持たないかで、決定的に変わってくると思います。
この狭い日本に1億2千7百万人が住もうと思ったら、東京、大阪、名古屋なんていう大都会は、ダムに頼らなきゃ生活できないと思います。しかしその時、川につくらせて下さいってお願いしてつくる立場と、さっき言ったように、狭窄部とみればダムをつくろうと考えるのとでは、対応が全然違ったんじゃないかと思うんですね。ダムの数も、もっと少なくてすんだんじゃないか。源流に落ちた落ち葉が海まで行ける川がもっとたくさんあったんじゃないのか、と考えるんですが、そこのところの認識が明確にされなくて、なかなか脱ダムがうまく機能しない、というところです。
ダムの工学が非常に遅れている面をお話したいんですが、ダムの堆砂の仕方は、水が貯まっていれば、流速が落ちて直ぐに土砂を置いていって、こんなふうに溜まるのは当然なんですが、今の堆砂容量の取り方は水平で取ることしか考えていません。ですから百年計画で堆砂容量を取ってあったとしても、毎年のように、どんどん治水容量、利水容量が減っていくわけです。利水容量、治水容量にもの凄い多額なお金を使ってつくっており、その容量がどんどん埋まっていくのに、何で堆砂容量を水平に考えるのか分かりません。ダムをつくる技術は進んでいても、この辺の考え方は遅れているのかなぁと思います。
今までダムが土砂で満杯になったらどうするのかを無視してダムをつくってきました。これは、日本のダム技術者だけじゃなくて、世界中のダム技術者がそうだったんです。ですから、アスワンハイダムで土砂を溜めすぎていろんな問題が出てきています。それをどうするのか大変な問題ですが、日本でも同様の問題があります。
・出し平ダム (富山県黒部川水系黒部川)
出し平ダムは、排砂する穴が2箇所あり、水を一旦捨てて、それで洪水の末端の流れで土砂を押し流します。洪水のピークの時は操作しません。下流で自然の洪水流量を人工的に大きくしてはいけないということで、ピークを過ぎてからゲートを開けて土砂を押し流すということをやっています。
これは、6年間くらい溜め込んだ後で土砂を流したため、その間に無酸素状 態で完全にヘドロ化していた落ち葉などが富山湾まで流れて大きな被害を与えました。その後は、毎年1回ずつ排砂していますが、富山湾の漁場が回復せず、今、漁民から叱られています。
私はこの排砂評価委員会の委員をやっていて、排砂を許可する側の人間で、富山湾の漁民からはいつも怒られているんですが、ダムを無くしてしまえば問題ないんですけれども、今、発電もまだ大切ですし、コンセンサスとしてこの発電を止めるところにまで至っていないという中で、議論が膠着状態にあります。ただ、ダムの排砂を初めて考えたダムとしては、歴史に残るダムではないかなと思います。
・旭ダム (奈良県十津川水系旭川)
昭和53年につくられた旭ダムです。1000m3 /s以上の洪水が流れてくるんですが、20年間くらい経って土砂がだいぶ溜まってきたことと、濁った水が1ヶ月も2ヶ月も出て、下流のアユに害を与えているということで、平成10年に140m3 /sのバイパスがつくられました。140m3 /sまでは全部流し、140m3 /sを超えたものは溢れてダムに入るんですが、洪水の流れでも泥が多いのは底の方ですから、底の方は全部流れていくため、それまでと比較して、土砂の溜まり方は1/10になったそうです。大きなゴロゴロした石が流れていくようになり、下流で再び、アユの生息条件が良くなったと言われています。この下流にもっと大きなダムやなんかがあって、十津川全体としては生態系が回復したというわけではないんですが、それなりの効果が上がっています。ただ、大きな石が流れますからトンネルが摩耗します。私も見ましたが、30cmくらいえぐられていて、これはだめだろうと思ったんですが、関西電力の技術者は、冬は洪水が来ないから冬の間に補修すればいいということでこれを行ったんですね。この方法は今後も大いに採用していくべきではないかと思っています。
・美和ダム (長野県天竜川)
天竜川の美和ダムですが、上流にこんなに溜まっちゃいました。つくられる前の景色は知らないんですが、写真で見る限りすばらしい渓谷だったのが、今は無惨な姿になっています。構造物をつくって美しくないものになっちゃうというのは、土木屋としてやっぱり、我慢ならない。構造物をつくって美しくなるものでないと駄目なんじゃないかというふうに思うんですよね。その典型として、私は、宮島の厳島神社の鳥居と海に浮かぶ神社がありますが、あの鳥居や神社が無かったら瀬戸内海では普通の景色だと思います。あの鳥居と神社があるおかげで、日本三景の一つになるわけです。だから、我々が構造物つくって、それで景色が美しくならなきゃウソなんじゃないのかなと。このダムの堆砂は残念ながら僕は正直、見苦しくなっているというふうに思います。
このダムでも、バイパストンネルをつくっています。ここの発想は、大きな石は全部上流のダム群で貯めて、掘削、運搬して、細かいものしか流さないということなんですが、僕は細かいものしか流さないと、さっきのヒゲナガカワトビケラがつくる巣があるような浮き石のところに細かいものが入っていったら、生態系をまた悪くさせるんじゃないかということで、やめた方がいいんじゃないかと言っています。ここまでやって今更やめるわけにいかないと、今、どんどん行われております。トンネルの壁の摩耗対策としてのこのシステムはダムに堆砂させないということだけでは成功するけれども、川全体の生態系の回復には役立たないだろうと考えています。このタイプで排砂をやろうとしているのがいくつかあって、考え直した方がいいと提言しているんですが、私の言うことはあんまり聞いてくれてないというのが現状です。
・佐久間ダム (静岡県天竜川水系天竜川)
佐久間ダムは3億2680万m3の総貯水容量の1/3以上が堆砂で困っています。一生懸命、ダンプトラックではき出しているんですが、残念ながらダンプトラックで運べる量は、1年間に入ってくる土砂の内の1/4ぐらいです。集落の前を1分おきにダンプトラックが走るので、もうこれ以上運び出すのはもう無理だといった状況です。前後のダムはもう満砂してます。ゲートがあって、それを開けると洪水時にはそこまで流れていくので、ゲート下のクレストのところまで溜まっちゃってるんですね。佐久間ダムができたとき、私はまだ小学生だったと思いますが、これでもう日本の電力は賄える、戦後復興は佐久間ダムで成功するんだって、大喜びしたダムだったと思います。そういうダムも、50年経たずして土砂の問題で、四苦八苦しているというのが現状です。バイパスをつくろうか、穴を開けて土砂を捨てるようにしようかとか色々考えてるんですが、おそらくこの土砂が流れていったら、下流の漁業組合がやっていることはもうできなくなるだろうと思います。
・ダムは副作用の多い劇薬!
この問題を解決するには4、50年は必要かなという気もしていますが、ともかくこれをどうしようかという検討が始まっている状況です。僕は基本的にダムは、副作用の多い劇薬である。できれば使わない方がいいだろうと思っています。じゃ、ダムに頼らない治水はあるかということですが、私は十分あるという考えです。実際に、国土交通省も建設省時代から、溢れても安全な治水というのがあるんじゃないかということで、いろんな対策を打ってはいます。1977年には総合治水対策、1987年にはスーパー堤防、1997年には樹林帯というものを河川法の中に導入しています。
河道主義治水がどうして始まったかについてちょっとお話しておきましょう。上流から土砂を含んだ洪水が流れてきて平野に入ってくるとバーッと散りますよね。そうすると、掃流力がないから土砂が溢れて水害が起こりやすくなります。土砂を持ってきてくれたから平野ができてそこに暮らせるようになったんですが、ある程度、生産性が上がってくると、そういう土砂は困るということです。デレーケが立てた案は、川幅を制限して、土砂を押し流す掃流力を高め、海まで土砂を持って行ってもらおうというものです。むしろ川幅を狭めたんです。それがいつのまにか、洪水だけを考えて土砂のことをあんまり考えないで、川の中に洪水を全部押し込めようという河道主義治水が始まったんだろうと思います。
・利根川
利根川は、基本高水のピーク流量は2万2千m3 /s。八斗島地点の上流で6千m3 /s分をカットして、1万6千m3 /sだけ川に流しましょうという治水計画なんですが、現在、上流のダム群でカットできる量は1千m3 /s分くらいです。今問題になっているやんば八ッ場ダムができても1600m3 /s分くらい。残り4400m3 /s分は、計画もなく宙に浮いてます。それからもう一つ、下流の方に、利根川放水路というのが計画されているんですが、これは全くやっておりません。この法線上には、家がたくさん建っていて、利根川の治水計画は、後100年経っても完成しないという状況です。ということから見ると、2万2千m3 /sという基本高水は大きすぎるということがいえると思います。
・信濃川
同じようなことが信濃川でも起こってます。信濃川でも上流の基本高水が1万3千500m3 /sで、その内、2500m3 /s分を上流のダム群で貯めて1万1千m3 /sだけ川に流しましょう。2500m3 /s分をカットするためには、上流に3億2千万m3 の総貯水量で、これだけのダムが必要だと言ってるんですが、今できているダムは5千万m3 分くらいしかありません。既に、清津川ダムは中止ですし、千曲川上流ダムも白紙になってますから、信濃川の治水計画も後100年経っても完成しません。
・総合治水対策/高規格堤防(通称:スーパー堤防)
公園貯留や校庭貯留をやりましょうという総合治水対策は、都市の小河川に適応されました。それから、堤防をオーバーフローしても、破堤さえしなければ大被害にならないんだから幅を、高さの30倍もある大きな堤防にしたらいいだろうというのがスーパー堤防の考え方です。土地がもったいないからこの上を再開発しましょうということなんですが、このスーパー堤防は800km計画されたんですが、現在完成しているのは15.2kmで、2千億円ぐらいのお金が掛かってます。今、計画している利根川、多摩川、淀川、大和川などの全800kmが完成するためには、このままいくと千年ぐらいかかるのかなぁということで、スーパー堤防は限界があるというふうに思います。
・河川法の改正と「樹林帯(河畔林)」
そういう中で出てきたのが河川法改正で、第3条に「樹林帯」という言葉が入りました。第3条はダムとか、堤防だとか、護岸を規定しているところなんですけれども、そこに人間が植えるとはいえ、自然に育つ樹林帯というものが登場したわけです。
・水害防備林
これは伝統的な水害防備林を復活していこうということなんですが、何でこれがいいかというと、水面勾配が緩くなり、土でできている堤防が破堤しにくくなる。破堤さえしなければ、被害が大きくならないのでこれを復活しようということです。勢いを殺す水制作用で土砂がみんなこの中で堆積していきます。また、濾過作用もあり、昔から使われています。新潟にある水害防備林の中に入ってみると、大きな石がゴロゴロしていて、裏側に家がありますが、家の方には石は流れて行かず、流速が抑えられ、土砂もあんまり含んでない水だけで大きな被害にはなりません。
堤防は土でできているから溢れたら壊れやすいというのは確かなんですが、逆に、昭和50年の石狩川の事例でいくと、2km以上にわたってずっとオーバーフローしていましたが、この間で切れたのは30mの区間だけでした。他はだいたい草が生えていて切れていません。ここがなぜ切れたのかというと、堤防に登っていく坂路があって地肌が出ていたところが削られて破堤してしまったということで、土でできている堤防も見方を変えればなかなか強いものであるということで、水害防備林やなんかが配置されれば、かなり強い堤防になるんじゃないのかなというふうに考えています。
水害防備林の典型例は桂離宮です。これは桂川で、斜面に竹が植えられてて、生きたまま折り曲げています。おそらく洪水が来たとしても、土砂は全部この中に置いていって、きれいな水だけ入っていきますよね。実をいうと、ここは何回も床下浸水を受けてます。数回受けてるんですが、書院は高床式になっているために浸水被害を一度も受けておりません。
・のごし野越
他にも遊水池とかいろいろ洪水対策があるんですけれども、これはなりどみひょうご成富兵庫(1560〜1634 佐賀郡益田(現在の佐賀市鍋島町)生まれの武将。土木・治水・築城にも功績大)という戦国時代末の人が筑後川の支流のじょうばるかわ城原川というところにつくった「野越」というもので、堤防が途中低くなっていいます。後ろには水害防備林があって、この影に集落があるんですけども、一度も水害を受けていません。こういう形で、ある一定規模以上の洪水は溢れさせて対応しようというのは、古い知恵として脈々とあるんですね。今は河川法を変えて、水害防備林を考える治水をやってもいいとなっているんですが、実はこの上に城原川ダムというのが計画されていて、この野越は全部潰そうということが、今進んでおります。せっかく河川法を変えたんだからこういう河川こそモデル河川としてやってみたらどうかと思うんですが、なかなか現状ではうまくいかないというところです。
・堤防の余裕高
堤防には計画高水位以上に余裕高というのがあります、余裕高は、いろんなことでとられているんですが、仮に余裕高まで食い込んで流そうとしたら、例えば信濃川の場合は4000m3 /s〜5000m3 /sくらい流すことができます。ということは、さっき、ダムでカットしなきゃならないという2500m3 /s分ぐらいは十分流せるということです。当面、ダムができない現状では、この余裕高に食い込んで洪水を流したらどうかと思います。
これは連続地中壁工法(M3 /Srench cum3 /sm3 /sing RE-mixing Deep wall mem3 /shod:M3 /SRD工法)ですが、鋼管杭協会やM3 /SRD工法協会といったところから、いろんな堤防強化法が提案されています。こういうものを使って堤防を強化することで、余裕高まで食い込んで流せば、当面クリアーできるのではないかという提案をしています。M3 /SRD工法は斜めに地中に連壁をつくるんですが、こかいかわ小貝川で実際にやられています。これを普通の堤防にも入れていくことによって、何とか堤防が強化できないか。ただ、コンクリートのように硬くする必要はないと思います。おそらくこういう土は一軸圧縮試験で強くても3〜4kg/cm2だと思いますけども、この辺の連続地中壁につくるところの強度は、高くても20kg/cm2、10kg/cm2〜20kg/cm2の間でいいんじゃないのかと思います。普通のコンクリートは200kg/cm2くらいの強さがありますから、それの1/10、1/20の強度でも十分浸食されず、水も通さないで、強い堤防にすることができるのではないかと考えています。
・高床式
なおかつ堤防を越えて溢れてくる場合は、高床式にしておけばいいじゃないかと思います。高床式にするには、日本の普通の家は30年ぐらいで建て替わっていますから、30年ぐらいで床上浸水を全部解消することは不可能ではない。今ダムをつくるのに、八ッ場ダムなんていうのは、もう40年以上経ってもまだ着工できないということですから、それから考えれば、30年というのは、そう長い年月ではないんじゃないかと考えています。新潟では、雪対策としてこの20年間でほとんどの家が高床式になりました。ただ固定資産税が安くなるだけです。市町村によって若干補助が出ている所もありますが、こういう制度を取り入れていけば、床上浸水は何とかクリアーできると思います。
・信濃川左支川しぶみ渋海川とうしゅこう頭首工
『技術にも自治がある』の「はじめにかえて」で紹介した構造物ですが、河川改修で川幅が1.5倍くらいになったので、それまでの固定堰を補償で可動堰につくり替えました。2000年にできあがったばかりです。「こういう近代的なものができて嬉しい」って言ってる地域の人に、私が、これは大変問題があると猛烈に批判したもんだから、今、混乱しているみたいです。何が悪いかと言ったら景色を壊しているじゃないかということです。ゲートが大きく、その上にも大きなモーターが入って、刑務所の監視塔スタイルで、周りの景観と合わない。ゲートのペンキも、おそらく10年に一遍は塗り替えますよね。そうすると、4千万円とか5千万円とかいうお金がかかると思います。今の農業の生産性で、その金は出ません。その上、こういう構造でも、7、80年経つとだいたいつくり替えられていますから、そうなった時には、今度は河川改修でなくて自前でつくり替えなきゃならないわけです。そんなお金が出るのか。補助金貰って、土地改良区が自己負担やったとしても10%は出さなきゃならない。
もっと問題なのは、人を寄せつけなくしているということです。
ここは、直下流の左側に岩塚小学校があって、前は、子供達が毎日ここに遊びに行ってたんですね。ところが、もう遊びに来ちゃいけない。実際、ここから落っこちたら死んじゃうかもしれません。治水的には、ゲートをパッと開けて洪水をスムーズに流す。利水的には、ゲートを下ろして水がすぐ取れるということで、治水と利水は考えたんですが、何で子供が川で遊ぶことの重要性が河川改修の目的に入らないんだ、これは入れるべきなんじゃないかというのが、私の主張です。将来、日本を担っていく子供達が豊かに育っていく為には、治水と利水だけを考えていてはダメなんです。子供が遊ぶことを考えなきゃいけないと批判しました。ここの小学校の校歌がすばらしいんです。特に2番がすばらしい。『青田をうるおす川瀬の水も時にはあふれて里人たちのたわまぬ力を鍛えてくれるわれらも進んで仕事にあたる心とからだを作ろう共に』川は溢れるんだということが前提となって、溢れて我々の力を鍛えてくれている。だから一生懸命労働しようよということが歌い込まれています。こんな校歌がある横の川で、こういうことが起こってるってことで、私の言うことが少しは理解してもらえた反面、疎外もされているんですけれども、次にこうした問題を考えるときには役立つのではないかなと思います。
・矢部川の松原堰(福岡県)
福岡県の矢部川の松原堰ですが、89年に行ったときには、こういう状況でした。ここから柳川に水が引かれています。これも可動堰です。ちょっと石が大きいんですが、広松伝さん(柳川の掘り割り再生とともに全国の水環境の蘇生に一生を捧げる。平成14年5月15日、64歳で急逝)に聞いたら、洪水の時にこれがゴロンと落ちて、洪水がスムーズに流れて、終わった後この石をまた持ち上げにいったということでした。可動堰で洪水をスムーズに流すのはいいんですけれども、石を持ち上げに行かなきゃならないところが面倒くさいということで、ラバー堰になりました。ラバー堰をつくるときに矢板を打ちますから、伏流水が流れなくなって、前は伏流水が流れていて、生態系がかなり良かったんでしょうが、今はダメです。私は当時行ったときに、「石は千年経っても腐らないからこれでいいじゃないか」、89年には小型のパワーシャベルが出てましたから、「昔のように人間が中に入って石を上げなくても、今は小一時間でその作業ができる」ということを提案したんですが、結局ラバー堰になっ てしまいました。ラバー堰は、ボンボンと跳ねますから、ついつい上に乗りたくなるんですね。だけどこれ、子供が行って落っこちると必ず怪我してしまいます。だからラバー堰には子供を近づけないほうがいいです。景観的にも何年か経つと、巨大なイモムシが横たわっているようで、あまりいい景色ではないと思います。
・肝属きもつき川支川串良川 川原園井堰(鹿児島)
これも可動堰で、洪水になると柴がバーと浮いてサーと流れてくれます。後でまた柴を山から取ってきて、ムシロをあてがって、水位を堰上げて農業用水を取水するんです。しかし、こんなことやってたら東京に出稼ぎ行けないってことで可動堰にしてくれっていうのが、高度経済成長時代なら当然だったと思うんですが、ここはたまたま今まで残りました。今は、60(歳)過ぎても、まだ元気だし、この程度の作業はできます。出稼ぎの必要のない時代になり、みんな楽しそうに作業しています。
この人達、この仕事が終わった後、どっかの集会所で一杯やるんだろうな、そこでまた、楽しい時間がもてるんだなって、そこが大事だと思うんです。逆にこれを可動堰にして、ボタン1つで上げ下げしたら、そういう楽しい時間を奪ってしまうわけです。だから、これから近自然とか、何かを考えていくときには、住んでる人達が、楽しい時間をもてるかどうかといったようなことも配慮して、構造物はつくっていくべきじゃないのかと思います。伝統的な技術の良さっていうのは、その地域固有の自然素材を使っている。人との関わりが深い技術だったということなんです。適正規模で、個性的で、そこに人が関わって、楽しいことやなんかの時間の蓄積ができて人間的である。土や、石や、木材は、単体としては強度が高く、意外と腐りにくいんです。木材だって、縄文時代のものが地中から出てきますし、空中にあれば、法隆寺のように1300年経っても存在しているわけです。ただ、組み合わせて集合体にするのが難しい。だけど、それは、福留さんのような達人がいれば、1個、1個うまく連携できます。それに対して近代的な技術っていうのは、大変巨大化してきて、素材が人工的で、専門化して、画一化してきて、結局、自然を壊しているところがある。人との関わりをできるだけ薄くすることが、目的だったんですよね。だから、時間の蓄積のない非人間的空間である。鉄やコンクリートは、一体的な構造物はつくれて強度が強いんですけども、意外と腐りやすかった、100年はもたなかったというところに、一つの大きな問題があると思います。これから近自然河川工法へどう期待するかということなんでが、やっぱり、川の自然多様性を保全して、そこで、人がどう関われるか、その子供が遊ぶということも含めて、そこのところに、もう一遍注目する必要があるのかなというふうに思います。
・簗
私が一番好きな河川構造物は、このやな簗です。簗は子供が来ると、子供を裸にする力があります。僕らがつくるとしたらこういう構造物をつくっていかなきゃいけないのではないかと思います。簗は20年ぐらいで腐ってつくり替えなきゃならないんですが、20年毎につくり替えることによって、その技術は確実に伝承されていくわけです。だから、技術の伝承ということを考えれば、こういう構造でもいいのかなと、必ずしも鉄とコンクリートによらなくて、昔なりの土木を、自然素材を使ってもう一度考えていくことも重要なのかなと思います。ご静聴ありがとうございました。
■質疑応答
質問:「長野県の脱ダムが、今どうなっているのかを、お聞かせ下さい。」
大熊先生:「委員会は、基本高水が大きすぎるから、ダムをつくらないためには、基本高水を下げろ」と言ったんです。「車買うときだって、ロールスロイスか、ベンツか、カローラ買おうかって考えるじゃないか、今の治水のあり方は、ロールスロイスに乗りたいと言っているようなもんだから、カローラかベンツくらいにしない?」て言ったんですが、結局、知事は基本高水を下げませんでした。河道で処理する分と、残りは、上流の森林である程度吸収しようという考えでした。僕は森林で吸収できると思うんですが、研究があまり進んでないので、それを数字として確実に河川計画にのせられないのが現実です。そうすると、ダムで貯めようとした分はどうするかということで、やっぱりダムは必要だが、穴あきダムにしようかとかなんとか言い出しています。それは、ダムと同じだからダメじゃないかと言っているんですが、結局、国土交通省から補助金貰うためには、基本高水のとおりでやらなきゃいけないということで、四苦八苦しているところです。当面、30年間ぐらいの計画で、河道だけやろうということになるのかなぁと想像していますが、そこにうまい考え方を投入していく必要があるだろうと思います。とにかく、基本高水が大きいから工事ができない、放水路もできないという川が日本国中にあるわけで、基本高水を考え直す段階にきているのではないか、と提案をしています。
2004年6月17日バイオフィット研究会第67回定例会にて
| ■大熊孝先生プロフィールプロフィール 新潟大学工学部教授・河川工学者 1942年生まれ。東京大学大学院工学系研究科博士課程終了。工学博士。74年、新潟大学助手となり、85年から現職。専門は河川工学、土木史。NPO法人「新潟水辺の会」代表。水郷水都全国会議開催、自主映画「阿賀に生きる」制作などに取り組む。 主な著書に「利根川治水の変遷と水害」(東京大学出版会)、「洪水と治水の河川史」(平凡社)、「川がつくった川、人がつくった川」(ポプラ社)、「日本のダムを考える」(岩波ブックレット)共著に「ローカルな思想を創る」(農文協)、「市場経済を組み替える」(同)などがある。 |